おもろいと「感じる」ほうを選ぶ

さまざまな場面で、選択の連続です。

しかし、自信をもって「こっちの道だ」と決められることの方が少ないのではないでしょうか。

「迷ったとき、どちらの道を選べばいいのか」というのは、誰もが持つ悩みだと思います。

損か得かを考える人もいるでしょうし、自分への周りへの評価で考える人もいるでしょう。

良心に従って、道義的によいと思われるほうをとる人もいるでしょう。

わたしは、はっきりとこう信念をもっています。

「迷った場合は、自分がおもろいと感じる方を選ぶ」

重要なのは、「おもろい」ではなく、「感じる」という部分です。

理屈や条件をもとに「おもろい」と推測されるものを選ぶのではなく、自分の感性に従うということです。

道や考えが2つに引き裂かれて、どっちに行くべきかと迷ったとき、振り返るとわたしは、自分の心がワクワクするのはどちらか、という観点で決めてきました。

ワクワクするほう、自分がおもろいと「感じる」ほうを選んできたのです。

つまり、「考える」ためには、まず「感じる」ということだ、と思ったわけです。

それは、「自分の感性を大事にしなくてはいけない」と固守してきたのではなく、何となく心に引っかかるものを大事にしてきたということです。

「おもろく感じる」ほうを選ぶと、目先の効率は悪いですし、苦労も多く、紆余曲折の道を歩むこともあるかもしれません。

しかし、わたしの体験からいうと、どんなに苦労しても、自分の感性に従って選んだ道は、貧乏にも耐えれるし、不遇の時代にも何とか耐えられました。

しかも、「いまはこうだけれども、きっと将来はこうなるはずだ」と、ものごとを長期的に考えることができます。

それこそ最大の収穫でした。

ものを見るとき

ものを見るときに、自分なりに、自分の「内側」と、つまり自分の感性とつながるものの見方をすることができれば、「あの人がいっているから」とか「これは権威のある議論だから」という見方に左右されることもなくなってきます。

自分の肌身で感じた感覚でものをいえば、保証してくれるのは自分しかいません。

これは、ある意味では責任の問われることであり、またある意味では不安なものです。

「間違っていたかな」と、絶えず自己検証と反芻を繰り返すことになります。

好きなもの、おもろいと感じたもの思ったものを選んだからこそ、自分の選んだ道を常に反芻し、検証していく。

それによって考えは深まり、より確かなものになっていくと考えます。

自分の考え方のルーツを知る

ものの見方や考え方に影響を与える時期

わたしたちは結局のところ、生まれも持った自分の頭で考えるわけなので、自分の頭の素地やルーツがものの見方や考え方に影響を与えることを知っておく必要があります

それによって、得意分野を伸ばしたり、軌道修正をしたりすることもできます

わたしはごく幼少期から、絵が好きでした。

想像物だったり、漫画だったり、アニメのキャラだったり見たり読む以上に自分で描きましたし、ねんどをこねたり、人が描いている姿をじっと見ていたり、手を動かすことがなによりも大好きだっと記憶してます

特に、親が絵を描きなさいといったわけでもなく、親自身が絵に造形が深いわけではありませんでしたが、ふつうに日常の中に溶け込んでなにかを作りたい欲求にかられ、人並みよりも少し興味を持ったのだと思います

自分が好きだったものの中に、自分の考え方の原点がある

小学校3、4年生の頃には、少年ジャンプを兄たちと一緒に読んで、ひとりでよく書き写していた覚えもあります

ジョジョの奇妙な冒険」のしげちーや、億泰のスタンドを書き写していたり、想像上のものを描いたり、人間や動物の構造はどうなっているのかとか、そういったことを作ったり、知ることが新鮮でした。

そして、「なぜこうなるのか」という疑問が、さらにもっと絵への興味を掻き立てました。

ところが、私が中学に入った頃には、絵ということに興味が薄れてしまい、スポーツに関心が移り野球部に入って汗をかくことの方が面白みを感じてました。

ただ、大学への進学時に、将来のことを考えた時に、子供の頃から好きだったモノづくりに憧れを抱き、京都の美術系の大学へ進学を決めました。

今思うと自分の両親もよく賛成してくれたと思います。特に、どういった職業につくのか定かではない、将来に安定性さもなさそうな大学だったので。

今振り返ってみると、美術を学ぶにあたり、よかった点が2つありました。

  • 芸術の本質を考えたこと
  • 思想やコンセプトを考えたこと

つまるところ、正解や正しさという概念ではなく、考えることを学んだ時間でした。

確かに、知識はつきました。

いわゆるものの考え方や、作品の思想や哲学に触れることが多い時期でした。

今の自分の考え方もこの時期に学んだことがとても影響されているとつくづく感じます。

誰にでも、種類は違っても、こうした考え方のルーツや遍歴があると思います。

それを意識し直すことも、自分の考え方を深める大きなきっかけになるはずです。

動きがあれば反動あり

何かしらの緊急の問題が起こっていて、それにどう対処するかが問われている場合の話です。

ゆっくりと時間をかけてあれこれと考えを試している余裕はありません。

そんな時、どんな問題が出てきても、まずはこのルール・原則で考えてみようという汎用性のある考え方があると助かると常々思っています。

ゆくゆくはもっと突っ込んだ考察が必要だとしても、まずは考えるとっかかりとして誰にでも使える原則です。

反作用というべき反応

ある動きがあれば、必ずその反作用というべき反応として、その動きに反する動きがあると考えます。

このルールをものごとを考える際にいつも頭の隅に置いておくことで、ものの見え方が変わってきます。

たとえば、エンジニアの動きにしても、メンバーの動きにしても、ある動きが出ているということは、その逆の動きが必ずあるはずだと考えます。

「経営陣でこんな動きがありそう」という通達があれば、その動きに対して周りがどう出るか、という反応を予想することができます。

あるMTGひとつをとったとしても、いくら主催者の方が「動」を起こしても、その裏側に「よし、一緒になって頑張るぞ」と思わない人がある一定の反動があるということ意識しておいた方がよいでしょう。

冷静に裏にあるものを見極めること

ものごとの見方や視点を変えるだけで、いろいろな人同士が感情や情緒で仲良くなれるはず、という錯覚からも解放されそうです。

人と人の関係だけでなく、会社と会社の関係にも、程度の差はあれど、「動きがあれば反動あり」のルールは働いているはずです。

間違ってもいいので自分なりの仮説を立ててみること

「考える」という作業の具現化

頭の中のもやもやしたものに言葉を与えるのが、「考える」という作業の具現化です。

その言葉も単語単位ではなく、文章単位ではなく、文章の形、それもいわゆる定言命題することによって、より自分の考えがはっきりしてきます。

定言命題とは、「〜は〜である」とか「〜は〜でない」といった言い切りの形で、ひとつの考えを言いあわらせるものです。

頭の中のもやもやも「〜は〜である」という形、たとえば「ウクライナの情勢は〇〇の出方によって変わる」とか「当社の課題は人事不足である」とまずは言い切ってしまうことによって、より考えが明確になるものです。

もちろん現実的には多くの問題は「言い切り」で終わるわけにはいきません。

自分なりの「仮説」を立てるということ

しかしまず大切なことは、あいまいだった考えを命題化することによって、ある問題に関して、自分なりの「仮説」を立てるということです。

たとえば、身近な新聞やテレビ、ネットのニュースを見て感じたこと、思ったことを当てずっぽうででも、間違っていてもいいので、とりあえず自分なりの「仮説」として言い表せてみます。

自分のまさにそうなのですが、この自分の考えというものに臆病というか、その場の支配的な考えに影響されすぎています。

それは日本の国民性もさることながら、「世界はみんな友達」とか「みんなはひとりのために」といった擬似的な空間に卵のように覆われて、口をつぐまざるをえなくなり、身動きがとれない状態になっていることからも見てとれます。

こんなことをいつまでも続けていると、自分の素直な感じ方を失い、本当の世界が見えなくなってしまいます。

多少見えることがあったとしても「そういうふうに考える自分のほうがおかしいのではないか」「善意を無視して、後ろ向きな考え方をしているのではないか」「そもそも人間同士は理解できるはずだ」など、自分の考え方や思いに自信が持てないときほど、優等生的なものに逃げ込もうとするものです。

やらなければいけないことは、すべての考え方に安易で安直な考えも持ち込まないようにし、たとえば一番優等生的なものからもっとも悪く考えたものまで、一つのテーマに最低でも3つの「仮説」を立ててみることです。

たとえば極端な話し「アメリカはウクライナを見捨てようとしている」「ロシアは第三次世界大戦を始めようとしている」などと言い切り形で「仮説」を立てるのです。

そうすることで、刻々と伝わる新たなニュースへの感度が高まります。

自分で立てた「仮説」を検証する

そして前に自分で立てた「仮説」を検証してみます。

「自分はあまりにも割り切りすぎた」とか「ここはだいたい合っていた」などといいながら、順次、修正していけばよいのです。 こうした作業を何度も繰り返して重ねていくうちに、それぞれの問題について共通するものが見えてきます。

自分の考えが、どういう方向性に傾きがちなのかもわかってきます。

それが自分の考える力を鍛えるということになるのです。

論理的に説明することは、相手への優しさ

まいど、こんにちはさとしです。

みなさんは、このコロナが蔓延しているこの状況でどのようにお過ごしでしょうか? 手洗い、うがいをしていますか??

さて、話しは変わりますが、「それって論理的?」って思うことありませんか?

論理的思考ってなんぞ?

論理的に考えるということは、根拠を持って説明することができること。 つまり、聞く相手にとって理解できるように伝えること。

わかりやすく言い換えると、小学生にでも理解レベルに噛み砕いて伝えることができること。

独りよがりに考えるのではなく、他人ができるように考え、 伝えることが、論理的に考えることの意義であるし、目的だと考えます。

では、論理的に考えるためには、どんな訓練をしたらいいのか。

それらしい本を読むのも否定はしませんが、それよりももっと大事なことは日々の訓練です。

私は、下記の4つのポイントを実践していくことで、論理的思考を鍛えているところです。

1:結論を明確にして、不明確をあきらかにする

ロジカルシンキングでまず最初にやることは、何が問題かをはっきりさせること。

その次に重要なのが「結論」。

結論が明確になっているか、不明確になっているかの2択になります。

何か問題がある場合でいうと、 例えば、開発における不具合共有の場合は、結論が明確になっていますよね。 工数管理の場合にも「タスクが終わっていない」とか、「人数が足りていない」という時には明確になっています。

ただ、人生における決断ともいえる転職の場合には結論が明確になっていない場合が多く感じます。 だから、論理的に考える前に結論が明確になっているのか、不明確になっているかをはっきりさせなければいけません。

結論が明確になっている場合は、相手に理解をしてもらうことが目的なので「根拠づけ」が一番重要なポイントです。

結論が不明確になっている場合は、まずその課題に対して情報を分析して、原因を究明をしながら、さまざまな可能性を探していくことが大切だと考えます。

2:理由づけを考える

現状を分析をして、目的まで到達する過程で自分が納得できなければ結論が出ていません。

人に説明をするときであっても、その過程や前提を相手に納得してもらい、自分のモノサシを理解してくれないと、説明は難しいですよね。

重要なのは、

  • 何が問題なのかをしっかりと把握すること。
  • 目的を再度確認をすること。
  • どういう結論を出したいのか。

その結論に対してどのように根拠付けるのかということがポイントになります。

自分で考えるときは、自分が納得できる根拠を。 相手に説明をするときは、相手の納得できる根拠に沿って説明できるかどうかで決まります。

それが論理的に考えるというステップです。

論理的ではないと言われてしまうのは、根拠付けがなく結論だけをいってしまうからです。 なぜ、そういう結論になったのかという過程や前提を説明できていないため、理解をしてもらうことが出来ません。

これでは、ひとりよがりの理屈や、わがままと言われても仕方ありません。

「論理的に考える」ために鍛えるのは、相手との共有できる根拠と理由づけです。

3:根拠は何かと常に自問自答をする

さて、根拠とは何か。 根拠とは、誰もが納得できるものにならなければなりません。

例えば、仕事でのプレゼンの場合だと、根拠は事実や数値やデータになります。

  • CVRが0.3%下がってしまったので、フォームの改修を行いたいです。
  • 離脱率を 14% に抑えることで、CVR が 0.1% 上がるとなると、ARPUが 10円上がる想定です。

日々の生活の中でも「その根拠は何?」「その結論は?」と自問自答をしています。 こうすることでスピードが上がり、より正確な判断を下すことができると考えています。

4:論理的に伝えることは、相手への優しさ

「論理的に考える」ことにおいては、根拠付けをすることが非常に大切です。 ただ、それは「相手が自分とは違うから」という大前提がそこにはあります。

自分と他人は違うものですから100%伝わらなくていい。

むしろちゃんと説明をしないと伝わらないものです。

「論理的に考える」とは他者を尊重することでもあります。 相手の立場を尊重したり、相手の立場に立って考えたり、相手にわかってもらうために論理的に考えて伝えます。

論理的に伝えるということは、相手に価値観を押し付けたり、いい負かせたりすることではないと思っています。 相手と自分の持っているモノサシが違うのですから、共通の認識を求めて歩み寄ることであり、人への配慮であり相手への優しさだと私は考えます。

参考文献:

論理的な話し方の極意

論理的な話し方の極意

論理的な話し方の極意

  • 作者:齋藤 孝
  • 発売日: 2017/06/23
  • メディア: 単行本

問題解決力が身につく思考実験:これは「読む」本ではなく「考える」本です

東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方:想定外の時代を生き抜くためのヒント


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。 ほなまた。

思考力・質問力を高めるために。

まいど、やっぱりさとしです。

ここ1ヶ月で、本を読んでも行動に移せないとダメだと再認識しました。

自分の経験だけだと限りがありますし、想像力も最低限の知識がないと、いつもと同じ思考の繰り返しになってしまうので、本は読んで実行に移すまでが大事です。

いつまでも勉強ばかりで一生行動に移さない「啓発ビンボー神」にだけはならないと心に決めました。

ストーリー思考

ストーリー思考---「フューチャーマッピング」で隠れた才能が目覚める

ストーリー思考---「フューチャーマッピング」で隠れた才能が目覚める

  • 作者:神田 昌典
  • 発売日: 2014/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ポイントは、「ストーリー力」と「分離する力」と「テキトーに考える力」です。

最後の、「テキトーに考える」ってのが面白い。 真面目に考えたら面白いストーリーが浮かばないし。 思いついたことをパッと言葉にして、テキトーにどんどん乗っけていく。 結果、テキトーに点と点がつながり、思いもしないストーリーが生まれるんじゃないかと。

私自身そんなクソ真面目なわけではないので、案外このテキトーがしっくりきました。 働いていると、みんな真面目に考えるので、なかなかこのテキトーっていうのができないんですよね。

論理的思考もできて、かつストーリー思考の理解ができればさらによしって感じですね。

最高の働き方

働く人すべての人に、ほんとにタメになる本。 個人的に自己啓発本類は、「7つの習慣」を読んでおけば、大丈夫だろうと思っていた自分が恥ずかしいです。

ビジネスする人にとって、基本である「メモのとり方」「資料作り」から「時間管理」「リーダーシップ」、「自由に挑戦する」といったチーム・会社や個人の人生まで踏み込んだ良作です。 心に刺さることが項目がありすぎて、あげればキリがない。

当たり前にできている人も多いかもしれませんが、会社に勤めているとその会社独自のルールがあったりして、行動できていないのではないかと。

それっていいわけなんですよね。

「やれ、上司がー」「やれ、会社がー」とか。自分に対していいわけをして、安心しているだけ。あー恥ずかしい。

一流の人って、そんないいわけをせずに、どうすれば今の現状を変えれるか、どうすれば今以上の期待値を超えれるかなど、考えて考えつくしていることがわかります。

ただ、そんな一流の人たちも、意外と漫画を読んだり、ゲームにあけくれていることが知れてよかったりもする。

要は、オンとオフの日の徹底的なけじめなのかもしれません。

これだけ!SMART

目標を「信頼」すること。これって、すごい大事なこと。

目標設定の大切さや、やり方がとてもよくわかる一冊です。

S:「具体的かどうか?」

M:「測定可能かどうか?」

A:「達成可能かどうか?」

R:「成果に基づいているか?」

T:「いつまでにやるのか?」

優れた目標はもれなく備わっているとのこと。

中でも「高すぎる目標にもメリットはある」は特になるほどと唸りました。 基本的にはギリギリ達成するかしないかぐらいがよいと書いておりましたが、ここは違いました。

「ギリギリ達成するかしないか」では既存のやり方を変えないからです。

高すぎる目標だと既存のルールや、やり方で達成しようとすると到底到達することができないので、まったく別のアプローチ方法や、やり方を模索する必要があるからです。

発想の転換が必須になってきたり、チームや部署を跨いだ行動力が必要不可欠です。

今まで目標に関して、真剣に取り組んでいなかった人にはおすすめの書籍です。

最高の結果を引き出す質問力

頭に「がつーん」ときました。この本を読むまで、「与えられた問題をなるべく早く解決できる人」がすごいと思っていたからです。 ところがどっこい。この本を読むと、その価値観は揺らぎました。

イノベーションを興すためには、「少しでもいい方向性に進む可能性があるならやってみる」という軽さから生まれることも新鮮でした。 確かに「もっといい案がある」といって、いつまでも躊躇していたらなにも変えることができません。

慎重に完璧を目指すよりも、ちょっとした違和感や「こうなったらいいな」とか希望をもって、具体的に「こうやってみたらどうだろう?」といった質問をすることからすべては始まるのかなと。

その質問をすることで、完璧でもなくていいから、少しづつ形を変え、実際に行動して、ものごとを動かすことが「カギとなる質問」になると理解。

もちろん質問にも、「良い質問」「悪い質問」があって、自分のためにしかならない。 自分も悪い質問をよくしていたと反省でした。

自分の意見を否定する「悪魔の代弁者」を自分の中に住まわせることも大事。 自らが自らのアイディアに対する「悪魔の代弁者」となるように常に努めることで、いい質問、いい答えができるとのこと。

最初から完璧な人はいないので、少しづつ成長できればよいですね。


今までの思考を変えれるかどうか。行動力がともなっているか。振り返りを行えているかどうか。

まだまだ、できていない部分が多すぎますが、得意な部分を伸ばしていきたいと思います。

ほなまた。

僕の生きる行動指針

こんにちは。

田中諭(さとし)です。

よく「下の名前はどんな漢字ですか?」と聞かれた際は「福沢諭吉の諭です」と、なにやらこっぱずかしい思いしながらお伝えしています。

 

この記事は 行動指針 Advent Calendar 2016 の 14 日目です。

さて、初めてのブログになりますが、私の行動指針の話です。

正直、自分でもわかっていません。

でも、尊敬する中島さんに書いてと言われれば、断れないのは確かです。

行動指針というだいそれたものはあまり持ってないと思うのですが、普段から意識していることはあります。

 

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生茶の得、茶の得平生

これです。この言葉は、子供頃から母親から口すっぱく言われてきた言葉でもあります。ただ、正直よくわからないですよね。

私は、口頭で言われていたので、ますますわかってませんでした。

よく食事中などに言われました。「あんた、へいぜいちゃのえちゃのえへいぜい、やで!」と。

漢字も当時、わかっていませんでしたのさっぱりです。

 

直訳すると、「いつもは茶の心得、茶の心得はいつも」になり、まぁ普段から人に思いやりをもって接ししなさいとなるのですが、私の母親はそんな使い方で使っていませんでした。

どうゆう使い方をしていたかというと、私が食事中に肩肘をついたり、左手を出さずに犬食いをしていた時に言われました。

 

母「あんた、肘ついて食べるのやめ!」

私「大丈夫。外ではやらへん。」

「あんた、へいぜいちゃのえちゃのえへいぜい、やで!」

 

言ってから、説明するのです。

家でしていることは、必ず外でもでるようになると。

だから、絶対にやめた方がいいとも。

当時の私は、「またまたーw」みたいなものでした。アホまる出しです。

でも、大人になってから、それがとてもよくわかるようになりました。

ほんとに普段の自分がでてしまうのです。気を許さなくても気を許していても。

気を許していたら、なおさら。

食事の時はもちろん、人との接し方や、人への態度など、普段どう考えているかがでてしまうのです。

 ので、普段から敬う心と感謝する心を意識をしていないと、当たり前になってしまい徐々になくなってしまうのです。

自分が、敬う心と感謝する心がなくなっているなと思った時は、心の中で叫んでいます。

 

「お前、へいぜいちゃのえちゃのえへいぜい、やろ!」

 

と自分に。

まぁ、簡潔にいうと、普段が大切やでって話しです。

 

へいぜいちゃのえちゃのえへいぜい

そんな私も大人になり、Google先生などで「平生茶の得茶の得平生」を調べてみましたが、そんな言葉は一向にでてきません。

嘘ではないと思うのですが、、、母親も、祖父からその言葉を受け継いだそうです。

なにやら、お茶の世界の言葉であるらしいので、もし万が一ご存知の方がいらっしゃいましたら、田中までご連絡ください。是非、ハグさせてください。

あまり行動指針といえるものではなかったかもしれませんが、あしからず。

 

 補足:母はまだ存命です。

 

最後に

行動指針アドベントカレンダー、楽しみにしています。

明日は、a4t さんです。よろしくお願いします。

 

ほな。