おもろいと「感じる」ほうを選ぶ
さまざまな場面で、選択の連続です。
しかし、自信をもって「こっちの道だ」と決められることの方が少ないのではないでしょうか。
「迷ったとき、どちらの道を選べばいいのか」というのは、誰もが持つ悩みだと思います。
損か得かを考える人もいるでしょうし、自分への周りへの評価で考える人もいるでしょう。
良心に従って、道義的によいと思われるほうをとる人もいるでしょう。
わたしは、はっきりとこう信念をもっています。
「迷った場合は、自分がおもろいと感じる方を選ぶ」
重要なのは、「おもろい」ではなく、「感じる」という部分です。
理屈や条件をもとに「おもろい」と推測されるものを選ぶのではなく、自分の感性に従うということです。
道や考えが2つに引き裂かれて、どっちに行くべきかと迷ったとき、振り返るとわたしは、自分の心がワクワクするのはどちらか、という観点で決めてきました。
ワクワクするほう、自分がおもろいと「感じる」ほうを選んできたのです。
つまり、「考える」ためには、まず「感じる」ということだ、と思ったわけです。
それは、「自分の感性を大事にしなくてはいけない」と固守してきたのではなく、何となく心に引っかかるものを大事にしてきたということです。
「おもろく感じる」ほうを選ぶと、目先の効率は悪いですし、苦労も多く、紆余曲折の道を歩むこともあるかもしれません。
しかし、わたしの体験からいうと、どんなに苦労しても、自分の感性に従って選んだ道は、貧乏にも耐えれるし、不遇の時代にも何とか耐えられました。
しかも、「いまはこうだけれども、きっと将来はこうなるはずだ」と、ものごとを長期的に考えることができます。
それこそ最大の収穫でした。
ものを見るとき
ものを見るときに、自分なりに、自分の「内側」と、つまり自分の感性とつながるものの見方をすることができれば、「あの人がいっているから」とか「これは権威のある議論だから」という見方に左右されることもなくなってきます。
自分の肌身で感じた感覚でものをいえば、保証してくれるのは自分しかいません。
これは、ある意味では責任の問われることであり、またある意味では不安なものです。
「間違っていたかな」と、絶えず自己検証と反芻を繰り返すことになります。
好きなもの、おもろいと感じたもの思ったものを選んだからこそ、自分の選んだ道を常に反芻し、検証していく。
それによって考えは深まり、より確かなものになっていくと考えます。