普遍的な答えは無い。人間万事塞翁が馬
本日、わたしの38歳の誕生日です。
もうそろそろ40歳に近くなってきて「四十にして惑わず」といいますが、振り返るとフラフラして迷ってばかりの人生です。
自分の経験や思考を改めて振り返る材料として、自分の考え方をまとめたものです。
最初の理解として
わたしたちが生きているのは人間社会です。
人間社会は相対関係で出来ています。
これが理解できていない人が多いと思っておりますが、自分が今いる位置は「誰か」や「何か」を基準にしてます。
そうしないと、ふわふわ浮いてしまって、定まりません。
自分が優れている、あるいは、劣っている。そう感じるのは、誰かを基準に物事を考え感じるからです。それは「親」が教えてくれた基準かもしれませんし、「学校」でそう習ったからかもしれません。 ここで注目すべきは、考えたり感じたりしているのは「自分自身」だ、ということです。
そうやって、「考える基準点」を自分で決めているのです。
これをわたしは自分の「ものさし」と表現します。自分の「ものさし」ということは、長くて硬くて柔軟性のない「ものさし」もあれば、短くても弾力が備わった「ものさし」もあります。わたしが目指している「ものさし」は、長くて柔軟性に含んだ仮に自分の範疇を超えたからといって、自分だけの「ものさし」では測らない「ものさし」です。
考える基準点を低くすれば物事は容易く達成できますが、それは誰でもできることで自分だけが出来ることではありません。そうなると代替えの効く消耗品に過ぎなくなってしまいます。
人は他人とは違うものを持ち、だからこそ価値が生まれます。
考える基準点
考える基準点を高くすると、達成できた時は多くの価値を生み出します。
このように「考える基準点」というのは貴方の行動と価値を決めています。
低いレベルに留まりたいですか?
安い給料で生きていきたいですか?
誰にも理解も認知されない人生が好きですか?
やりたいこともできないウジウジした人生が好きですか?
考える基準点を変えると、これらは一転します。
上記のような生き方も否定はしません。が、わたしは嫌だとはっきりと断言します。
基準になっているヒトやモノやコト
相対的な理解として、基準になっているヒトやモノやコトがあると思います。
それも全て人間関係です。自分の目を通して、現象としてそれを捉えます。
そしてそれが、良いか悪いか、役に立つかそうではないか、といったことを頭で判断しています。
その時に使っているのが基準点、つまり「ものさし」です。 その時に「ものさし」としている人の考え方で、あなたも考えているのです。
何かを理解しようとする時、誰かや何かを基準にして物事を考える動物なのです。
そしてもう一つ、人は自分で経験しないと、そのモノやコトの本当の意味を理解できません。だから、本を読んだだけでは、経験していないので、受け売りにしかならず、応用が利きません。
つまり、出会った人と経験で決めています。
沢山の人に会いましょう。
沢山のコトに出会いましょう。
そうすると、それぞれのケースで、目に映る景色の中で、自分の頭で考えるようになります。
沢山の判断基準が備わってきます。
それを重ねていくと、大筋で対応できる自分なりの「型」というのが出来上がってきます。
物事はケースバイケースなので、型を使って物事を自分で考えて、その判断基準がその場合に適切なのか、自分で判断できるようになります。
型が出来たら、それを使って全く違う事象で試してみます。
自分自身のモノの見方や判断が周囲に受け入れられれば、それが正解です。
正解も相対的なもの
正解も相対的なものです。場所や時が変われば正解が変わってくるのは、歴史を見れば明らかです。
どんどん人に出会って、どんどん経験を積んで、どんどん正解を自分の頭で見つけていけばよいと信じています。
あなたがいる環境(人間関係)での正解の集合体が、あなたにとっての「物事の本質」です。
物事には、正解はありません。
普遍的な正解など何一つないと信じています。「人を殺してはいけない」という一見正しいことでも、見方を変えると正しくないのです。
わたしは自分の子供が殺されようとしているときには戦い、時には相手を殺す場合もあるかもしれません。
物事はケースバイケースです。物事の「ものさし」を変えると、見方は180度変わります。
物事の本質には普遍的な答えは無い。人間万事塞翁が馬
だから自分で考え判断するのですが、その場その時の出会ったコトを、どう判断するかが自分にとっての「物事の本質」です。
世界は自分の脳の中にあるのです。
沢山の人に会いましょう。
沢山のコトに出会いましょう。
難解に見えて極めてシンプルです。
恐れから自分を解き放つとき、本当の自由が手に入ります。
思考の自由は体の自由に繋がります。
自分自身の心の筋肉を鍛えましょう。